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静岡地方裁判所浜松支部 平成元年(わ)122号 判決

主文

被告人を懲役一七年に処する。

未決勾留日数中二七〇日を右刑に算入する。

理由

(罪となるべき事実)

被告人は、昭和五八年三月国立H医科大学医学部を卒業するとともに、同年春の医師国家試験に合格して医師免許を取得し、同年七月から静岡県H市内の甲野総合病院において泌尿器科医師として勤務し、次いで、昭和六二年七月から同市内の同大学医学部附属病院において泌尿器科助手(医師)として勤務していたものであるが、

第一  前記H総合病院勤務当時主治医として治療したことのある慢性腎不全患者A(昭和二年五月五日生)が腎臓移植手術を受けることを強く希望しているのを奇貨として、同人から、腎臓提供者の家族に対する謝礼名下に財産上不法の利益を得ようと企て、真実は、右Aのために腎臓を提供する者はなく、同人が腎臓移植手術を受けられる見込みもないのに、これあるように装い、平成元年四月四日午後一〇時ころ、静岡県浜松市《番地省略》の同人方において、同人に対し、腎臓提供者の家族が二五〇〇万円欲しいと言っているので、これを用意してもらいたい旨うそを言い、さらに、同月八日午後五時ころ、同県藤枝市《番地省略》の乙山泌尿器科医院から右A方に電話をかけ、同人に対し、二五〇〇万円を振り込みさえすれば、腎臓提供者の家族が三、四日のうちに腎臓を提供してくれることになったので、至急丁原銀行浜松支店のB名義の普通預金口座に振り込んでもらいたい旨重ねてうそを言い、右Aをして、二五〇〇万円を振り込めば自分のために腎臓が提供され、腎臓移植手術を受けられるものと誤信させ、よって、同月一〇日午後一時三〇分ころ、同県松浜市《番地省略》の株式会社丙川銀行浜松支店から、かねて被告人が開設していた同市《番地省略》の株式会社丁原銀行浜松支店の前記B名義の普通預金口座に二五〇〇万円を振込ませ、もって、同額の預金債権を取得して財産上不法の利益を得

第二  前記犯行の発覚を免れるため、前記Aを病死にみせかけて殺害しようと企て、同日午後六時ころ、前記A方において、用意してきた、精神安定・筋弛緩作用を有するジアゼパム注射液(商品名セルシン注射液)一アンプル分約二ミリリットル及び筋弛緩・呼吸抑制作用を有する臭化パンクロニウム注射液(商品名ミオブロック注射液)一アンプル分約二ミリリットルをいずれも生理食塩水とともに点滴管を通して右Aの左前腕部静脈内に注入して同人を呼吸停止から心停止に陥らせ、よって、そのころ、同所において、同人を呼吸不全及び心不全により死亡させて殺害したものである。

(証拠の標目)《省略》

(弁護人の主張に対する判断)

一  弁護人は、判示第二の事実(以下「第二の事実」という。)について補強証拠がないから無罪である旨主張するので、この点について判断する。

1  被告人は、自首したうえ、捜査及び公判を通じ、一貫して第二の事実を自白している。そして、捜査段階の自白は、実際に犯行を体験したものでなければ述べられないような臨場感を感じさせる具体的・詳細なものであり、かつ、秘密の暴露を含んでいる。

2  第二の事実についての前記各証拠のうち被告人の自白以外の証拠によれば、次の事実などが認められる。

① 被害者は平成元年四月一〇日の午後六時ころから午後一〇時ころの間に被害者宅で急死したこと

被害者がその日に、自殺・災害死・自然死することは考えられず、病死する可能性も極めて少なかったこと、その日の被害者の様子などに急病死を予測させるようなところは窺われないこと、被害者の死体の状況がセルシン注射液とミオブロック注射液の静脈注入、即ち外因によって死亡した場合の死体の状況と似ていること(従って、被害者の死亡は他殺と推認されること)

(なお、死亡日時が平成元年四月一一日午前一一時一五分、死亡の種類が病死、死亡の原因が慢性腎不全による心不全と記載された、被害者に関する死亡診断書があるが、その死亡日時は死亡推定日時ではなく既に死亡していることを確認した日時であり、また、被害者が慢性腎不全による心不全で急死することも考え難いこと)

② セルシン注射液一アンプル分約二ミリリットルとミオブロック注射液一アンプル分約二ミリリットルを生理食塩水とともに被害者の静脈内に注入した場合、被害者は、数分以内に呼吸停止し、それから心停止に陥り、呼吸停止してから一、二分、長くても一〇ないし一五分で死亡すること

③ 被害者は、前記日時場所で急死したが、被告人は同日夕方被害者宅で被害者と会う約束をしていたこと

被告人は、犯行に使用した、セルシン注射液(アンプルの胴体部分と折り取られた部分)・ミオブロック注射液(アンプルの胴体部分と折り取られた部分)・生理食塩水・点滴セット・注射器(ビニール袋)・注射針(カバー)・翼付静注針(カバー)・脱脂綿・紙絆創膏などを、使用しなかった、セルシン注射液(アンプル入り)・点滴セット・注射器・注射針・翼付静注針・脱脂綿の残り・紙絆創膏の残りなどとともにクーラーボックス(クーラーバッグ)に入れ、被害者宅から自宅に持ちかえり、使用したものを廃棄した(廃棄し忘れたものもある)と供述するところ、使用したとされる、セルシン注射液のアンプルと組成的に同一のガラス片・生理食塩水の乾燥したものと推認される食塩の結晶・点滴セットの一部(注射針のケース二本・ケース入り注射針一本)・注射器のビニール袋片・注射針のカバー二個・翼付静注針のカバー一個、使用しなかったとされる、セルシン注射液(アンプル入り)三本・点滴セット一セット・注射器三本・注射針五本・翼付静注針一本・脱脂綿の一部・紙絆創膏の一部などが犯行後被告人の自宅のクーラーボックス内から発見されたこと、犯行に使用したとされる、セルシン注射液(アンプルの胴体部分と折り取られた部分)・ミオブロック注射液(アンプルの胴体部分と折り取られた部分)などが発見されていないが、被告人の供述する犯行後の廃棄方法によれば、その発見は不可能に近いこと

毒薬・要指示薬のミオブロック注射液(アンプル入り)は一般に入手することが困難であるが、被告人はそれを勤務先から持ち出して入手することができたこと、犯行の方法は、医薬品・医療器具ことにセルシン注射液・ミオブロック注射液を用いての薬殺という特殊なものであるところ、被告人はそれを遂行しうる知識・経験などを有していたこと

3  前記1のとおり、高度の信用性を有する自白、ことに公判廷における自白がある本件において、前記2の証拠は、自白にかかる事実の真実性を保障しうるものであり、第二の事実についての補強証拠として十分である。よって、弁護人の前記主張は採用しない。

二  次に、弁護人は、被告人が本件各犯行当時極度のノイローゼ状態にあり心神耗弱の状態にあったと主張するので、この点について判断する。

前記各証拠並びに第四回公判調書中の被告人の供述部分によれば、被告人が、犯行当時妻の病気のことで深刻に悩んでいたこと、犯行前の平成元年一、二月に自分が担当していた患者三名が相次いで死亡してショックをうけ無力感に襲われたこと、学会での研究発表などのために必要な時間が十分にとれないことを苦にしていたこと、いろいろなことを考えて眠れないこともあったことが認められる。しかしながら、前記各証拠により認められる犯行の動機が了解できること、判示の犯行態様、前記各証拠により認められる犯行の計画性巧妙さ・犯行に対する被告人の道義的判断・犯行後の罪証隠滅行為、犯行状況・犯行前後の状況に関する被告人の記憶がよく保たれていることなどを総合すると、被告人は本件各犯行当時、是非善悪を弁別し、それに従って行動する能力が著しく減弱してはいなかったことが認められる。よって、弁護人の前記主張は採用しない。

(法令の適用)

被告人の判示第一の所為は刑法二四六条二項に、判示第二の所為は同法一九九条にそれぞれ該当するところ、判示第二の罪について所定刑中有期懲役刑を選択し、以上は同法四五条前段の併合罪であるから、同法四七条本文、一〇条により重い判示第二の罪の刑に同法一四条の制限内で法定の加重をした刑期の範囲内で被告人を懲役一七年に処し、同法二一条を適用して未決勾留日数中二七〇日を右刑に算入することとする。

(量刑の理由)

本件は、医師である被告人が、慢性腎不全患者で腎臓移植手術を切望する被害者から腎臓提供者の家族に対する謝礼名下に財産上不法の利益を得るとともに、その犯行の発覚を免れるため被害者を病死に見せかけて殺害しようと企て、金銭を振り込めば腎臓が提供されるなどと被害者を欺き、二五〇〇万円の預金債権を取得して財産上不法の利益を得、その日のうちに被害者を薬殺したという事案であるところ、詐欺の段階から利得後被害者を殺害することを決意していたものであって、犯行の罪質・結果は重大である。犯行の動機も、詐欺については、癌の手術をした後の妻と共に過ごす時間を増やすのに必要な経済的余裕を得るため、殺人については、詐欺の犯行発覚を免れるためであるが、差し迫った金銭の必要がなく、詐欺以外に取りうる手段があるのに、短絡的に他人の犠牲ことに他人の生命の犠牲のうえに自己の幸福を求めたものであって、まことに自己中心的であり、酌量すべき点はない。また、前記のとおり、詐欺の時から殺人をも企図していたほか、殺害に必要な医薬品医療器具を準備して被害者宅へ持ち込んだり、腎臓移植手術の話を口止めし、架空人名義の口座に振り込ませ、その日のうちに病死にみせかけて薬殺して犯行の発覚を免れようとするなど、犯行は計画的で巧妙である。さらに、詐欺については、被害者が自己に全幅の信頼を寄せていることや人工透析を受けている慢性腎不全患者が腎臓移植手術を渇望する事情を知悉しながら、これに付け入り、腎臓の提供を受けられるなどと申し欺いて不法の利益を得たものであって、卑劣というべきである。信頼し切っていた被告人から命まで奪われた被害者の心情は察するに余りあるところ、遺族の被害感情もいまなお深刻である。また、腎臓移植手術に携わっていた医師が、腎臓移植手術に藉口して患者を騙し利益を得たうえ、その知識経験を悪用して患者の生命を奪った本件は、医師や腎臓移植の関係者のみならず一般社会に深刻な衝撃を与えたものであり、医師に対する社会の信頼を揺るがしかねず、社会に与えた影響も小さくない。以上、本件犯行の罪質、動機、計画性、態様、結果の重大性、遺族の被害感情、社会的影響等に照らすと、被告人の罪責は重大であるといわねばならない。

しかしながら、他方、被告人は、捜査段階から各犯行を素直に自供しており、殺人罪については自首が成立すること、本件について衷心から悔悟しその改悛の情も顕著であること、詐欺の被害は全部弁償されたこと、殺人の点についても被害者の遺族に見舞金一〇〇万円が支払われ、謝意が表されたこと、被告人は、本件の詐欺事犯によりすでにH医科大学を懲戒免職されたが、将来医師免許が取り消されることも十分に予想されること、被告人にはこれまで前科前歴がないことなど被告人のために酌むべき事情もあるので、以上の諸般の事情を総合考慮して主文の刑が相当であると判断した。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 山口博 裁判官 大澤廣 窪木稔)

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